ベトナム戦争とアメリカ
アメリカは1954年7月以来、アイゼンハワー政権のもとでジュネーブ協定を無視して、南ベトナムでゴ・ディン・ディエム親米政権を育成し、ベトナムの分断固定化をはかってきました。
ところで、ジュネーブ協定というのは、24年10月に第五回国際連盟総会で22ヵ国が調印した国際紛争解決のための協定で、仲裁、安全保障、軍備制限などを含んだものです。
すべての国際紛争を常設国際司法裁判所や連盟理事会に付託すること、仲裁中に軍事行動を起こした侵略国に対しては一致して経済制裁にあたることを内容としていました。
しかしイギリスが制裁義務を否定したため、実際の効力を発揮できなかったのですが、第一次世界大戦後の集団安全保障を具体化したものでした。
ベトナムでは60年12月に南ベトナム民族解放戦線が結成されていました。
さて、ケネディ大統領は1961年5月、ディエム政権を存続させるために、アメリカ特殊部隊400人と軍人顧問100人の派遣を端緒として、ヴェトナムに対する直接軍事介入政策を展開しました。
これはアイゼンハワー時代の「ドミノ理論」を継承したものです。
ドミノ理論とは、ある地域が共産化すると将棋倒しのように連鎖反応的に拡大し、自国の危機を招くという戦略論です。
61年春にキューバ侵攻作戦が失敗し、かつラオス問題の中立主義的解決がはかられたことによって、アメリカは自らの「威信」をとりもどそうと、ベトナムを象徴化することになりました。
こうしてケネディ大統領は、軍事顧問団を63年末までに1万6000人に増強するとともに、62年からは農民を解放勢力から切り離す目的で、「戦略村」計画を実行に移していました。
しかしケネディ大統領のこのような軍事介入政策は功を奏さず、1963年5月の仏教徒のデモを契機として、その後ディエム政権は政治的危機にみまわれ、11月1日、アメリカの承認を得て決行された反ディエム軍事クーデターによってアメリカが約10年間にわたって支えてきたディエム政権はついに崩壊してしまいました。
その21日後にケネディ大統領暗殺事件が起きたのです。
そしてケネディ死亡の数時間後に、副大統領のジョンソンが、血のついた服を着たケネディ夫人の前で大統領昇格の宣誓を行いました。